Shitaya Police Station
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川路大警視と警視庁
 川路大警視は、明治5年8月27日東京府に属していた警察権を司法省警保寮へ移管するに際し、警保助兼大警視に任命され、9月8日西郷隆盛の推薦により、警察制度研究のため欧州へ出張し、翌年9月6日帰朝しました。

 そして、政府に対して警察制度改革の建議書を提出し、これが内務省及び警視庁創設の動機となりました。

 明治7年1月15日東京警視庁が設置され、これに伴いその長たる警視長に任命され、さらに同年10月15日大警視へと昇進しました。

 ときに、わが国に征韓論が起き、征韓を主張する西郷隆盛の議が受け入れられず西郷隆盛は薩摩へ帰ってしまいましたが、西郷隆盛の恩恵を受けた川路大警視は「私情においては誠に忍びないことであるが、国家行政の活動は一日として休むことは許されない。

 大義の前に私情を捨てあくまで警察に献身する。」と自己の信念を明らかにし、明治10年2月14日西南の役が勃発するや、陸軍少将を兼任し、警視庁警視隊を率いて西郷軍と戦うこととなりました。

 明治12年2月12日、警察制度研究のため再び欧州へ出張しましたが、病のため明治12年10月13日46歳でこの世を去り、青山霊園に葬られています。

    
川路大警視と下谷警察署
     
下谷警察署敷地内にある川路大警視邸跡の碑
下谷警察署敷地内にある川路大警視邸跡の碑
   
 下谷警察署の現在位置は、警視庁の創始者である川路大警視の私邸跡に位置します。

 私邸は、竜泉1丁目、2丁目及び下谷3丁目にかけて約15,000坪の敷地で、沼や池があって鴨猟が出来たほどの広大な土地だったそうです。

 川路大警視が亡くなった後も、昭和31年までこの土地にご子孫が代々住まわれていました。

 現在の昭和通りは邸内の一部で、署の庁舎は庭園の築山あたりになります。

 庁舎南側にある、「川路大警視邸跡」の石碑は昭和55年5月に建立されたものです。

 平成11年10月13日(水)には、川路大警視の曾孫「川路利信」氏の妻川路知子様をはじめ3名の方を招致し、「川路大警視120年記念行事」を実施しました。
警視庁警察学校にある川路大警視の像
警視庁警察学校にある川路大警視の像
川路大警視の面影
 川路大警視は、寝食を忘れて職務に没頭し、ほとんど官服を脱いだことがないと言われていますが、家庭にあっては優しい一家の主人であったそうです。

 川路大警視は、たいへん我慢強い人でもあり、どんなに暑くても、決して「暑い」とか「寒い」と言うことを口にしなかったとのことです。

 また4時間以上の睡眠はとらず、床に入るときはかならず枕もとに紙と硯を置き、夜中でも思案が浮かべば、すぐにローソクに火をつけて筆を走らせ、「夜の考えは誠に良い」と語っていたそうです。

 また、碁や将棋は「親の死に目に会えない」からと手にしなかったようです。
    
警察手眼とは
 警察手眼は、川路大警視の語録を丁野中警視が植松氏に依頼し、編集させたもので7項目からなっており、その一部は次のとおりです。
   
警察要旨の項
 行政警察は、国民を罪におとさないよう予防が第一だ。軍隊と警察は、国を守る両翼のようなもので、軍隊のヨロイカブトに対し、警察は、力を養う薬餌のようなものだ。

 政府が父母なら、人民は子供で警察はそのもり役。
警察官心得の項
 酒を温めるには、その酒より暖かい湯でなければならない。

 人を導くとか、警めるとかは、先ず自分自身が相手より勝れた存在でなければならないし、その行動は「仁愛補助の心」からはみだしてはいけない。

 人民のために、捕縛の役目を勤める警官は、我に対して人がいかなる無理非道の挙動があっても、道理を以って懇切を尽くし忍耐強く勉強せねばならない。

 探索の道、微妙の地位至りては「聲なきに聞き 形無きにみる」が如き、無声無形の際に感覚せざるを得ざる也。

 怪しき事は多く実なき者なり、決して心を動かすべからず。然れども、一度耳に入る者は、未だ其の実を得ずといえども、亦、怠らざるは警察の要務なり。

 「聲なきに聞き 形無きにみる」の言葉は、現在も警察官の活動の指針となっている。即ち、警察官たるものは、声なき声に耳を傾け、表面的、外形的な現象のみにとらわれることなく、奥に隠されたモノを見逃すことなく、真実をあばき出すことが必要であるということである。

 これは、また、世の為、人の為都民の声をよく耳にし、真の社会を見出し、活動する現在の民主警察の真髄を諭したものである。
     

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